「暮らし」から、美しいものが生まれる -丹波篠山に柴田雅章を訪ねて
たわわに実った稲穂を日差しがやわらかく照らす秋のある日。日本におけるスリップウェアの第一人者として知られる陶芸家、柴田雅章さんを丹波篠山に訪ねました。
丹波は日本六古窯のうちのひとつ、丹波焼きの産地です。そこで柴田さんは息子の貴澄さんとともに丹波の土を使い、自ら薪を調達し、灰釉をつくり、登り窯で焼成する作陶を今も続けておられます。
焼成が行われるのは年にわずか2回。この日はちょうど、イル・クリマで使うメインの皿とパスタ皿が焼きあがるということで、私たちも窯出しに立ち会わせていただきました。そして、柴田さんが陶芸に進まれたきっかけとなった柳宗悦の言葉との出会い、民藝との関わりについて、じっくりお話をうかがいました。
「誰でも美しいものをつくることができる」
―柴田さんが陶芸の道を志したのは、柳宗悦の言葉に出会ったことがきっかけ、とうかがいました。
僕は両親が僕が19歳と20歳の時に亡くなったんです。必然的に人間のいのちについて考えざるを得なくなりました。そんなことがあったときに、叔父が民藝協会に入っていて、家に柳の本がたくさんあったんですね。たまたま手にして読んで、のめりこみました。
大学は理工学部で工業化学を学んでいたんですが、それこそ激動の時代で、学園紛争、70年安保、ベトナム戦争、公害など、社会問題に目を向けざるを得ない時代でした。公害の元凶は科学で、科学者は新しいものをつくるけれど、結果に責任を持つことはない。多くの疑問が湧いてきました。当時は手仕事がほとんど注目されない、科学こそ万能の、日本がどんどん成長していく時代。でも何か違うんじゃないかって結果が出てもいた。そこで触れた柳の言葉は、そういう世界があるとは考えもしなかった、全く別の世界でした。
― 柳の言葉のどういったところが響いたんでしょうか
一番は、誰でも美しいものをつくれる、ということです。名も無い職人たちがつくったものが美しく、いくら天才が自我を発揮して頑張ってもかなわないものがある、なぜそうなるのかが問題であると。全ての人間のなかにそういう美を生み出す力があるなら、できるかはわからないけれど、自分でもやってみたい。手でものをつくっていく暮らしをしたい。そう思いました。
同時期に河井寛次郎先生の本にも触れて、それがまた強烈なんです。「火の誓い」のなかの「命の窓」という短い文章にも深く感銘を受けました。
価値観や個性はもっと多様であるはず
それで、民藝館があることを知って訪れて、ものにも圧倒された。そうして焼き物を知って勉強するなかで、丹波に出会います。展示されているものをみて、素晴らしいなと。柳先生が民藝館に数百点のコレクションを持っていて、「丹波の古陶」という本も出されている。
丹波焼きは歴史が800年くらいあるなかで、時代時代によって違うんですね。普通、日本の焼き物の評価というと、お茶の世界、あとは鍋島など大名の庇護を受けてきたものが多いなかで、丹波はお茶の世界などからあまり評価されなかったがゆえに、普通の生活のための器をずっとつくってきた。だから時代によって違うし、丹波って何なのか、一言では言えません。
であれば、僕が生きてきたのは昭和だから、昭和の丹波があってもいいんじゃないか。現代の生活に合うものを丹波の素材でつくっていこうと、自分の中で可能性が開かれるのを感じました。江戸時代の丹波はずいぶん変化していて、そのなかに色んな技術があるんですよ。それをもっと現代に生かしていける可能性があるから、やりがいがあると思いましたね。
日本中の各地方の窯は、それぞれの土地の材料をいかして、それに沿った形や模様が生まれてきています。だから美しいわけで、均一になると面白くなくなる。そこが現代の文明によって、便利さ、快適さなど、価値が一方向に決められてしまい、制約されているところがあると思います。ほんとうはもっと多様な、あらゆるものに価値があるわけでしょう。
丹波の土と技法ならではのスリップウェアを
―スリップウェアをつくられたきっかけは
学生時代に民藝館で目にして、えらい衝撃を受けたんです。以来、頭の中にはずっとあったけれど、スリップウェアは民藝館でみるもの、イギリスのものだとも思っていました。僕は丹波で、丹波の土と伝統的な技法を生かして今のものをつくりたいと。
それがあるとき、目白にあった古道具坂田さんで、イギリスから持ち帰られたスリップウェアが売られると聞きつけて、行ったんです。収入がない時代でしたが、金融機関から物置をつくる名目でお金を借りて、3年月賦で購入しました。
当時は、スリップウェアの模様をどうつくるのか、明らかではありませんでした。ただ手に入れられたスリップウェアをずうっと見ているとですね、だんだん白と黒の化粧土をつかった仕事だとわかってきて。丹波の江戸末期にも同じ仕事がある、つまり原料は同じなんだと気づきました。
じゃあ何が違うのか。粘土の違いと焼ける温度。もうひとつは、模様のつくり方。
形をつくってから模様をつけたんでは、化粧泥が垂れてしまって、あの模様になりません。模様を先につくってから型に当てないといけない。そういう発想は日本の焼き物屋にはないんですが、どうもそうしないとできない。そこからいろいろ試してみたら、なんとかできたんですよ。
スリップウェアとは化粧の泥で装飾をつけた器ということですから、僕のようにつくらなくても、スリップウェアとは呼びます。濱田先生も河井先生も、つくったものにスリップしたものはあります。ただこのつくりかたではつくっていないだろうし、イギリスにもつくりかたの文献はないので、僕のやり方でつくっていたのかも正確にはわかりません。残っているものをみると、そうだろうとは思えますが。
イギリスでは産業革命以降、手仕事のものはほとんどなくなります。古いものも、もともとパイ皿ですから、大量にあったはずだけど割れて残ってない。「鑑賞用ではない」と重要視されていないので、美術館を巡った時も、求めていたものは展示されていませんでした。
ただ僕は、イギリスのスリップウェアをやろうという気は無いんです。丹波の土でうちの登り窯で、灰釉を使った、日本のスリップウェアをつくりたいと思っています。
自我を超えるには、ひたすらつくること
-柴田さんは柳の言葉を読んで陶芸の道に入られて、作陶を続けてこられました。その実感として今も、誰でも美しいものをつくることができると思われますか
僕はそう思います。そうするためには何が必要か、自我に則っていたらできない。そことの戦いですね。こうしたい、ああしたい、脳に従っていては美しくなりません。そこをもう一歩超えないといけない。超えるには、ひたすらつくるの。それしかないです。
座禅でもやればいいのかもしれないけど、柳先生のお弟子さんで鈴木繁夫先生という方がいますね。鈴木先生は、禅の修行をした結果、ものをつくり轆轤をまわすのは修行と同じことだから、君たちは禅の修行に行く必要はないと仰いました。
体をまず動かしてやる。そうしていくと、どこかで体と頭が調和がとれてくる。どうしたって頭はなかなか抜けないものです。
柳が美をみつけるのに直観という。それも同じことで、直下にみる、まっさらな目でみるというけれど、色んな知識が邪魔して、なかなかできないですよね。だけどたとえば、果物を食べておいしいなっていうのは、知識を経ないでパッとくるでしょう。皆、そういうものは持っているはずなんです。感じる感覚をいかに大事にできるか。それも修行だよね。
根本は、惚れるほどものが好きか。それがなければものづくりはだめです。それはある種の良いものに対する憧れで、直観でいかに深く感じられるかの原動力になる。
― 仕事としてものづくりをしない人は、直観を磨くのにどういう努力ができるでしょうか
普通の生活でも同じはずですよ。子どもの持っているものをそのまま感じる、人間関係をそのまま感じる。生活の中で、何を選んで食べるか。おいしいって感覚には、それまで育ってきた経験がつまっているはずなんだよね。ここにいたら気持ちがいいとか、なんとなくあそこには行きたくないとか、みんな感じているものがあるはずで、春に花見、秋に紅葉を見に行くのも、みんな求めているものがあるからでしょう。
全てが含まれる「暮らし」が仕事
ただアンテナの感度が昔の人と比べると鈍っている。そこはそういうものだと意識しながら、学ぶことも必要でしょうね。
河井先生の言葉で、「もの買ってくる自分買ってくる」という。「ものを買うってことは、そこに自分がいるんだよ」。そう言われちゃうともう大変、「すべてのものは自分の表現」、何やったってどの責任も自分ですよ。
「新しい自分が見たいのだから仕事する」。素晴らしい言葉でしょう。それが20歳の僕の中に刺さりました。「暮らしが仕事、仕事が暮らし」。暮らしの中からしか仕事は出てこない。それを民藝という言葉でいうなら、そこには暮らしも含まれています。
途中何年か弟子のいることがありました。何もできない人がくるわけだから、すぐに焼き物はつくれません。まずは草引き(雑草とり)に始まって、はじめはそういう雑用ばかり。焼き物は轆轤を回せればできるわけではないので、学べる状態になるまでにも何年かかかるんです。
土や灰を漉したり、土を叩いたり、薪の用意など、色々な準備が必要です。窯を焚くには赤松を使いますが、それもはじめはそれなりの木で炊いて、最後は良い木を入れないと温度が上がらないから、木の見極めが必要だし、灰から釉薬をつくるにもコツがある。
すぐ焼き物にとりかかれないうちの弟子は気の毒ともいえるけど、物の理を身につけていくのは後々の人生にも生きる幸せなことだと思う。焼き物だけが人生ではないんだから。河井先生が「暮らしが仕事」だというのは、食べること着ること寝ること、あらゆるものが含まれるすべての中から、ものが生まれてくるということですよね。
尊敬できる先輩との出会いや、使い手とのやりとりも大切ですよ。それがないと、作り手も育たない。僕らの時代は、鈴木繁夫先生だったり、本質を見抜かれるような怖い目を持ってズバッと言ってくださる方が何人かいました。
僕は大阪民藝館で20年以上展示の仕事をしていましたが、ものづくりも展示も、基本は直観ということで同じです。展示は直観以外の何物でもありません。バランスが良いか悪いか、理屈じゃない。柳先生が鈴木先生に伝えたこともそうだし、鈴木先生が僕らに教えたこともそうでした。民藝というと、理屈で説明するとわかったような気になりますね。本来はものが中心でなければならないのが、ないがしろにされるところがあることを今は危惧しています。
わかりやすく理論化されるのは違うように思います。民藝館にたくさんのものがあって、それに準じたものを選ぶことはみんなできると思うけれど、本質をずばっと捉えることは、なかなか難しいですね。そういう修行の場が、ほんとうはないといけないのでしょう。
富山には土地の力を感じさせる色々なものがまだまだ残っているそうですね。お寺という場所を中心に宗教的な空気などに触れられるのは、とてもいいことなんじゃないかな。*
柴田さんは丹波篠山の豊かな自然のなかで、ご家族と「暮らしが仕事、仕事が暮らし」の作陶生活を営まれていらっしゃいました。窯出しの夜の高揚には、火の神様、土の神様、目に見えないものへの感謝と、手をかけたものができあがる歓びが満ちていました。柴田さんの器が持つ良い気配には、それらが結実しています。それは柳宗悦の書いた民藝理論を器物を通じて感じさせる稀有な仕事でもあります。
楽土庵のブティックでは、楽土庵オリジナルの柴田雅章さんのスリップウェアを販売しています。土のあたたかみと、いのちの揺らぎを感じさせる陶器たち。ぜひお手にとってご覧ください。
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